せかいのなりたちについて。
ずっとむかしからわたしのこころのなかにある「せかい」について。
ほんとうはえでかきたいのだけれど、うまくかけそうにないので、おおまかなところをことばでかきとめる。
その「せかい」は、みっつのかいそうにわかれている。
「もんさんみっしぇる」のような、しまのすべてがおしろになっているようなかたちのせかい。
いちばんうえのまっしろなせかいには、ひとくみの「かっぷる」がすんでいる。
だれもみたことのないような、ぜっせいのびなんびじょ。けがれのないこころをもち、うまれたときからすべてをあたえられていて、ふたりだけでくらすことにみちたりているひとたち。
けがもびょうきもなく、としをとることもなく、はたらくこともうえることも、ひとをにくむこともない。ただただ、おたがいをあいするだけ。
かべにとりつけられたこまどがときどきあいて、むこうから、ごはんやようふくがてわたされる。わたしてくれるひとのかおはみえないし、ことばをかわすこともない。ただ、「むこうがわ」のひとは、はいいろのふくをきていて、ちょっとだけこわくかんじるふたり。
そして、まっしろなこの「せかい」では、ときおりでんきのあかりがちらつくことがあり、ふたりはそれをすこしだけふしぎにかんじるけれど、すぐにわすれてしまう。
にばんめのかいそうには、へいぼんな「はいいろ」のひとたちがくらしている。
とくにくるしいこともないけれど、とくにこころがはずむこともおこらない。うすあかるい「はいいろ」にみたされたせかい。
そこでは「ますだなまこ」というなまえのおんなのこが、くらしている。
とくにひとめをひかないみための、へいぼんなおんなのこ。びょうきはしないけれど、けっしてうつくしくもないからだ。
しごとは、「しろいせかい」のこうきな「かっぷる」に、しょくじをとどけにいくこと。
かおをみたことはないけれど、しょくじをうけとるときのゆびさきがあまりにもうつくしく、むこうがわのせかいがまぶしすぎて、まともにみることができないのだった。
たいくつで、しずかで、なにかふまんなようだけれど、なにがふまんかはよくわからないまいにち。
いちばんしたには、あんこくのかいそうがある。
くさりでつながれて、みはりになぐられながら、おもくておおきなはんどるを、みんなでまわす。
みんなのみためはとてもみにくく、みはりからこのよのものともおもえないことばで「ばとう」され、なげつけられたくさったごはんをうばいあってたべる。
いたくて、つらくて、くるしくて、しにたいまいにち。
ときどきしごとがたいへんすぎて、ころんでしまい、はんどるのそうさがとまる。
するとみはりがとんできて、「はつでんをやすむな! あかりがきえる!」と、ひどくひどくなぐる。
わたしをころして!とさけぶけれど、そのねがいはききとどけられない。
このみっつのかいそうのせかいでは、すべてのものがとしをとらず、えいえんにいきつづけるうんめいだから。
えいえんにえいえんに、いたくて、つらくて、くるしくて、しにたいまいにちがつづくことが、きまっているの。